表示文字サイズの選択 表示文字サイズ:ノーマル 表示文字サイズ:ビッグ

● 土肥実平の木像 ●
● 石橋山古戦場 ●
● しとどの窟(いわや) ●
● 城願寺 ●
● 郷土での歴史的活躍
湯河原、地の豪族「土肥次郎実平(實平)公」
生没年不詳。本来は「どさねひら」と読む。
平高望(たかもち)の後裔(こうえい)、中村荘司宗平(むねひら)の息。
相模(さがみ)国足下(あしのしも)郡土肥郷(神奈川県湯河原(ゆがわら)町、真鶴(まなづる)町)を本拠とし土肥次郎と称し、 中世日本史上(平安末・鎌倉初期)に活躍した郷土の武将である。
源頼朝が治承4年(1180)8月16日 三島大社 の祭典の晩、第一攻撃目標は伊豆国目代で恋敵でもあった山木兼隆と定め、北条時政らと山木兼隆の首を討ち取り、伊豆の源氏に組する者たちを集め 8月17日、高倉宮以仁王の平氏追討の令旨を掲げて伊豆の蛭島(現在の伊豆の国市)に兵を起し、 20日 伊豆国 を発ち土肥実平を道案内で 日金山 を越え、相模に入り 土肥郷(現湯河原町) に着いた。 21・22日と土肥実平の館において作戦を練り、伊豆・相模の武将の援軍を得て300余騎を従えた頼朝は、鎌倉に向かう途中の石橋山で 先陣・ 佐奈田与一義忠 が敵将の大庭景親の弟、俣野五郎景久と対戦したのを発端として戦闘に入りましたが前方を平氏方大庭景親の軍勢3,000余騎に、 後方を伊東祐親の300騎に挟まれ大苦戦となり敗れました。これが「 石橋山の合戦 」です。この時 佐奈田与一義忠 の家臣 文三家康 も主の敵討ちのため敵陣に討ち入り8人を討ち戦死しています。後に頼朝はこの2人の為に涙を流したと言われています。 8月24日、一旦土肥へ引返し堀口の合戦(鍛冶屋瑞応寺附近)にも敗れ、土肥実平の守護とみちびきによって 土肥の椙山に逃げかくれ実平のお陰で人の知らない谷底 しとどの窟(いわや) 大木の洞(土肥の大杉) にかくれたり、又、 小道地蔵堂 において僧純海の気転により床下にかくれ一命を救ってもらった。従者七人(頼朝七騎)とともにこの巌窟に5日間かくれていた。 実平の嫡男・遠平も椙山では共にいたとされていますが、伊豆山権現に逃れていた北条政子(恋敵の山木兼隆と争った相手)の元に使者として訪れ、 頼朝が安房へ逃れたことを伝えている。 漸くして敵も引揚げたので山から降りて来たら、 吾が家 が盛んに燃えていた。この情況を見た実平は頼朝を勇づけるため 延年の舞を舞って 慰めた。 吾妻鑑(吾妻鏡)にはじょうもうの舞と記されている。 また、真鶴には船出前に隠れていたとされる窟( 鵐窟(しとどのいわや) )があります。 8月28日 真鶴(岩浦) から 三浦を経由し安房(千葉) に向かったとある。 謡曲「七騎落」では八騎の数を忌み嫌った頼朝が七騎にするよう土肥実平に命じ、止むなく嫡男の遠平を下船させ? 真鶴崎から小船で三浦半島へ、更に安房に向かい平北郡猟島(鋸南町竜島)に上陸したとある。 安房では先着の三浦義澄、和田義盛、北条時政等と再会。
その後、鎌倉幕府を開いた。(幕府成立時期については多説有ります。)
この巌窟( しとどの窟(いわや):土肥椙山巌窟 )は、頼朝を救い、後の歴史を大きく変えることになったところ、と伝えられている。 土肥実平は富士川の合戦、常陸出兵などに従軍し、頼朝からの厚い信頼をえた。そして、平氏打倒のために義経らが西国に派遣されると、これに従軍した。 平氏が壇の浦で滅亡してのち、元暦元年(1184)には(岡山)備前・備中・備後三ケ国の守護に任ぜられ、播磨・美作の守護に任ぜられた梶原景時とともに、 平家敗走後の西国支配の責任者となったのである。 建久2年(1191)7月18日、厩の上棟奉行をしている記述(『吾妻鏡』)を最後に、実平は史料から姿を消している。 その後は子息等の名前が出るようになり、後の資料によると建久2年7月18日〜同6年7月13日に死亡したと推測される。 しかし、源頼朝の命により建久4年(1193)羽黒山麓の手向に黄金堂を建設したとされる記録もあり、死期については現在のとろこ決定することは出来ていない。 最後に土肥城がどのような姿であったのかは不明ですが、 城願寺 より登ること約2kmに 土肥城址 がある。『新編相模国風土記稿』には「土肥實平の城跡と傳ふれど信じ難し 盖し北條氏の頃 望哨など設けし遺跡なるべし」とありますが、そこは皆様の想像にお任せするとして、 ここはピクニックランドにもなっています。 城山の頂上 であり、ここからの 見晴らし はとても良い。お墓については 城願寺のページ を参照して欲しい。

● 実平の妻について
銅像においても実平に尽くしている姿はわかっていただけると思いますが、その名前は不明のまま。 『源平盛衰記』の記録によれば、「 土肥の女房 」。吾妻鏡によれば、「 土肥の妻 」としか出ていない。 土肥の女房は非常に賢く、僧を一人あい語らい椙山におわしましける程は、 竹製の農具に御料を入れ、上には樒(しきみ)を覆い、アカの桶に水を入れて、上人法師の花摘む由にもてなして、忍び忍びに送りけり。と 頼朝やその家臣達に食糧を運んだという。 頼朝達が真鶴より舟で発てば、三浦の一族に合戦の推移と現状を伝えた。これにより頼朝一行が三浦に立ち寄った際にも 問題なくすべてが順調にすすんだと言われている。 頼朝と土肥の女房との対面は数々あったと思われるが、吾妻鏡によれば石橋山合戦から15年後の建久6年7月13日 (土肥の後家の尼参上す。下若(美酒)等を相具し御前に召して御賞翫に及ぶ)と記されすでに実平の死後であったとされる。 この土肥の女房は見方を変えれば、この戦における重要な騎であり頼朝が頭の上がらない女性の一人であっただろう。
● 土肥実平の像 ●